伊那からはじまった「信州そば」栽培
山国、信濃の国は奈良時代、山岳信仰の高まりのなかで修行の場として多くの山が霊山として開創されました。
修験者の開祖「役小角(えんのおづぬ)」は、修行のため奈良の都から東山道を経て信濃の国に入り、最初の霊場を西駒ヶ岳に求め、小黒川をさかのぼったとされています。このときふもとの内の萱(現 伊那市荒井区)の里人に温かくもてなされた役小角は、その礼として一握りのそばの実を渡し、厳しい環境のもとでも収穫できるそば栽培を教えたそう。村人たちはこのそばを大切に育て、いつしか「行者そば」とよばれるように。
その後、この伊那の地で収穫された「行者そば」の種は修行僧らの手によって各地の霊山のふもとに広められたと言い伝えられ、今日の山岳信仰の強いところにそば処ありといわれるゆえんとなっています。
辛つゆそば
江戸時代のはじめ、高遠藩主 保科正之公は無類のそば好きとして知られ、辛つゆ(大根おろしの汁に焼味噌をいれたつゆ)で食べる内の萱の「行者そば」が大好物であったそう。それを聞いた人々は行者そばを食べようと内の萱におしかけ、たいへんな評判になってしまいました。
人々の求めに応じきれなくなった内の萱では「西駒登山を修める者以外行者そばを食べることはできない」とし、以後、行者そばの味は秘伝の味になったとか。そんな秘話も残る内の萱です。
伝播した「高遠そば」
そば好きで知られた高遠藩主 保科正之公は、1636年山形最上藩、1643年福島会津藩へ転封する際には、そば職人や穀屋を伴ったとされています。一行は高遠のお城の慣習であったおもてなし料理「辛つゆそば」を伝承。現在も残る会津の「高遠そば」はその伝播の証ともいえるでしょう。
また、正之公はのちの四代将軍家綱の後見役として江戸に詰めた27年間にも好んでそばを食し、江戸時代中期以降に花開いた江戸のそば文化にも大きく影響しています。
このように信州そばの文化は伊那から山形、会津、そして江戸へと大きくひろがってゆきました。
「高遠そば」と「行者そば」
「行者そば」の名前の由来は修験者 役小角に由来し、地粉で打った手打ちそばを大根おろしの汁に焼味噌を溶いた「辛つゆ」でいただくもの。
一方「高遠そば」は高遠の山間部に伝わる「からつゆそば」が江戸時代に東北の会津地方に伝わって「高遠そば」と呼ばれるようになり、その名称が現代になって高遠に里帰りしたという歴史があるご当地そばです。辛味大根・焼味噌・ねぎで調味されたつゆが特徴的。辛味大根には汁気が少なく辛味が非常に強い「高遠辛味大根」という固有の大根が使われます。
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