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高遠城

この地方は古くから諏訪氏の勢力圏内にあって、南北朝の頃からの支族である高遠氏が高遠地方を支配していたが、天文年間武田信玄の侵略にあい、その旗下に属した。高遠は諏訪から伊那に入る門戸であり、駿河・遠江に進出するための重要な地点であるため、信玄は天文16年(1547)家臣秋山信友・山本勘助らに命じこの城を拡張改築させた。その規模は大きくないが、当時の進歩した築城技術と、武田流兵法を勘案して築いたといわれ、城としての必要条件をみな備えた名城である。
上伊那各地の諸城は江戸時代初頭までの間に次々と廃されたが、ここ高遠城は上伊那の拠点として大名の居城となり明治維新まで存続した郡下随一の城郭なのである。

高遠城跡の魅力をご紹介 (伊那市公式HP)

池上秀畝筆「旧高遠城之真景」(伊那市立高遠町歴史博物館所蔵)

伊那ゆかりの偉人

仁科五郎盛信(伊那市立高遠町歴史博物館提供)

仁科五郎盛信

長野県歌「信濃の国」にうたわれる仁科五郎信盛(盛信)。武田信玄の五男として生まれた。母は油川氏で、武田家最後の当主勝頼の異母弟でもある。1582年、伊那谷を北上する織田軍に対し、伊那谷の武田軍はそれぞれが退散や織田軍の味方となる中、盛信は高遠城を死守するため5万の織田軍に対し、わずか3千の兵で家臣と共に戦う。しかし圧倒的な兵力の差で負けてしまう。武田家滅亡に際し徹底抗戦したのは高遠城に立て籠もった仁科軍のみだった。一歩も引かず戦った盛信の壮絶な最期は、今も人々に語り継がれている。

高遠城跡の魅力 (伊那市公式HP)

「高遠城の戦い」VR ご紹介 (伊那市公式HP)

保科正之公肖像画(土津神社蔵 )

保科正之

二代将軍徳川秀忠と奥女中静との間に生まれたが、7歳の時事情により当時の高遠藩主保科正光の養子となった。その後21歳で高遠藩主となる。1636年に、義兄である三代将軍家光の大抜擢を受け、出羽山形藩20万石へ転封となり、その後も家光の信頼を得て、1643年には会津23万石の藩祖となる。
正之は、常に藩民政の安定を第一と考えて改革を行い、四代将軍家綱の補佐役として幕政を成功させた功労者であり、その様は江戸時代の名君の一人に数えられている。

名君 保科正之 公 (伊那市公式HP)

名君 保科正之公の大河ドラマをつくる会

橋爪玉斎 筆井月像(個人蔵)

井上井月

漂泊しながら俳諧に親しんだ俳人。井月の出自については分からないことが多いが、越後国長岡藩の出身であるといわれている。1858年頃に伊那谷へ来たといわれており、酒を好み、一杯もらうと「千両千両」と言って喜んだという逸話がある。書の技量も高く、頼まれては書いて渡した。伊那谷を中心に俳諧仲間と交わること30余年、1887年に伊那市美篶末広太田窪の塩原家で往生を遂げた。井月の墓は死後まもなく門人梅関によって建てられ、自然石に「降とまで人には見せて花曇り」の一句が刻まれている。

伊那谷を代表する俳人・井上井月の紹介 (伊那市公式HP)

伊澤修二(高遠図書館蔵)

伊澤修二

高遠が生んだ教育者。高遠藩の下級武士伊澤勝三郎の長男として生まれ、高遠藩校「進徳館」で学ぶ。藩の貢進生に選ばれて大学南校で学ぶ。1874年、24歳で愛知県師範学校長となり、翌年にはアメリカへ留学する。ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学で音楽・理数・盲唖人教育等幅広く学を修めた。帰国後は、「小学唱歌集」を作りこれが全国各地の小学校で使用された。東京音楽学校(現 東京藝術大学)の初代校長や東京盲唖学校校長などを兼務し、日本の近代教育の礎を築いた。

*「小学唱歌集」は日本初の五線譜による音楽教科書でおもに「蝶々」「蛍(蛍の光)」「仰げば尊し」などがある

伊那市ゆかりの教育者「伊澤修二」 (伊那市公式HP)

いにしえの道

街道の交差点だった伊那

かつて地域と地域を結ぶ街道があり、伊那は何本もの街道が交差する要衝でした。
伊那と木曽を結ぶ権兵衛街道
江戸時代、高遠藩の参勤交代の公道だった金沢街道
中山道の脇往還・伊那街道
秋葉神社の信仰の道・秋葉街道
それらは生活物資や生産物の輸送路として重要であり、各地から文化や信仰を運ぶ道でもありました。
先人たちの残した歴史の道は、時代をこえて今も私たちの生活に強く結びついています。

羽広道(はびろみち)

馬の観音様として信仰を集めた羽広・仲仙寺への参詣道であり、農耕馬が家族の一員であった頃は、田植えが終わると馬を連れた参詣人で賑わったと伝えられています。伊那市坂下の辻を起点に西箕輪仲仙寺まで一丁(約109m)おきに丁石が建てられています。

伊那街道(三州街道)

信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、中山道塩尻宿を起点に天竜川沿いに伊那谷を南下して、三河の岡崎で東海道と合流しました。

権兵衛(ごんべえ)街道

「もっと多くの米を木曽へ運びたい。そのためには峠に街道を開くことだ。」江戸時代、そう思い立った古畑権兵衛によって開かれた街道であり「米の道」と呼ばれています。

杖突(つえつき)街道

甲州街道から杖突峠を経由して高遠城下を結ぶ道。高遠藩政時代には地域流通を担いました。
炭焼きが盛んであった芝平地区の方面から炭を諏訪へ売りに行くのによく使われました。

法華道(ほっけみち)

伊那市長谷非持から甲州街道に抜ける道は1400年代に身延山の上人が布教のために通り、法華経の信者が身延山に通った古道で法華道と呼ばれています。
一時廃れていましたが、平成10年に芝平地区出身の方が一人で整備し始め、15年の歳月をかけて再び全通させました。

秋葉街道(あきはかいどう)

信州側からは火伏せの神として有名な遠州・浜松の秋葉神社へ詣でる道として。信州へは三河や遠州から諏訪大社や善光寺への参詣道として賑わいました。また生活物資や生産物の 輸送路としても重要であり、街道沿いの史跡、文化財、石仏が歴史を感じさせてくれます。