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高遠石工とは

2022.1.20

高遠石工とは

石工(いしく)とは石材加工を行う職人のことで石切(いしきり)とも呼ばれ、江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られていました。
高遠藩領内出身の石工は「高遠石工(たかとお いしく)」として全国各地で活躍。その優れた技術で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣など様々な石造物を造りました。
江戸城の石垣工事や東京お台場の「品川浦砲台」の石垣工事にも高遠石工が参加したという記録も残っています。

民間信仰の高まりと石工

古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。

集落を見守る石仏たち

諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石造物が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から長きにわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。

石仏師「守屋貞治」

高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。
修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。

温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。
石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめています。これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。

身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年(1832)11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。

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