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歴史・文化(長谷エリア)

長谷エリア

 伝統芸能・祭り 
中尾歌舞伎
36-250x166 江戸時代、この地に旅芸人が来て上中尾の神様を祀ってある神社の前宮で演じたのが起源といわれている「中尾歌舞伎」。以来、地域の山の神祭りに合わせこの歌舞伎が演じられ、いつの日かこの地の伝統芸能として芽生え、いまに受け継がれるようになりました。毎年4月29日と秋に定期公演を行っています。

伊那市高遠長谷教育振興課 ☎0265-98-2009

史跡・名所
〔国重要文化財〕熱田神社(あつたじんじゃ)
伊那市長谷溝口
  日本武尊が東征の帰途この地に立ち寄り、村人を悩ませていた大蛇を退治したとの伝説があった。後の世の人々がその恩沢を慕い、尾張の熱田神宮の形影をお迎えし産土神として祀ったのが熱田神社である。現在の本殿は宝暦13年(1763)に再建されたもので、規模は小さいながら特殊な建築技法と精巧かつダイナミックな彫刻から「伊那日光」と呼ばれ親しまれている。

伊那市高遠長谷教育振興課 ☎0265-98-2009

検校塚(けんぎょうづか)
伊那市長谷非持

平安時代のこと、一条天皇秘蔵の鷹が獲物をまったく獲らず、どんな優秀な鷹飼も飼いあぐねていた。これを優秀抜群に飼いならした依田豊平は、その褒美として信濃国非持の里を与えられ、その地を治める検校となった。伝承では「検校豊平」は善政を行い、村人に敬愛されたと伝えられる。墓所である検校塚には明治15年に区民の手により頌徳碑が建立された。

宗良親王の遺跡(むねよし(むねなが)しんのう いせき)
伊那市長谷溝口
 南北朝時代、後醍醐天皇の第8皇子「宗良親王」は信濃宮と呼ばれ、信濃大河原を拠点に南朝復興を目指し転戦したと記録されている。明治中期、
御山の裾から無縫塔が発見され、昭和6年郷土史家の調査により十六弁菊花の紋章と「尊澄法親王」の文字が刻まれていることが判明した。以後、この塔を御山に安置し宗良親王の遺跡として毎年供養が営まれている。
八人塚(はちにんづか)
伊那市長谷黒河内
 戦国時代、伊那地方は武田信玄の軍門に降っていた。弘治2年(1556)、信玄が川中島で上杉謙信と対陣している間に、伊那の八豪族は信玄と婚姻関係にあった木曽氏を攻撃した。それを知った信玄は大いに怒り、八人の武将を捕らえ伊那狐島で処刑した(蓮台場G-5)。黒河内の人々はひそかに8人の首を持ち帰りこの地に葬った。
市野瀬古城址(いちのせこじょうし)(城山)
伊那市長谷市野瀬
 頂上には樹齢500年以上の堂々とした松が群立しており、みごとな枝ぶりは見るものを圧倒する。城山は展望が良く、室町時代には熊野城の、そして戦国時代には一ノ瀬城の物見台として使われていた。斜面一帯にツツジが植えられ、満開時には山が燃えているかのような花を咲かせる。
宇津木薬師堂(うつぎやくしどう)
伊那市長谷杉島
  戸倉山にまつられていた薬師如来が、東南の方角にあるサワラの木に飛び移ったという言い伝えがあり、その木を「移り木」と呼んだことから、宇津木という地名になったといわれている。この薬師堂は宝暦4年に新築され、建築の様式・彫り物・造作等すぐれた芸術作品で、中でも十蔵薬師は伊那諏訪地方の三薬師のひとつとうたわれ、縁結びの利益があるとして信仰を集めた。
小松氏先祖の墓
 壇ノ浦の戦いに敗れた平家の子孫の墓と言われている。
 博物館・美術館・資料館 
孝行猿資料館
伊那市長谷市野瀬
鉄砲で撃たれて死んだ母猿を蘇生させようと、囲炉裏で手をあぶって必死に母の体を温める子猿たち・・・。この話は、寛延2年(1749)に編纂された新著聞集に入野谷郷(長谷)の話として紹介され、戦前には修身の教本に掲載されたため、全国で知られる民話となった。資料館では民話を再現し、親を思う子猿のけなげな姿を伝えている。
問:資料館(気の里入野谷内)0265-98-1030
戸台の化石資料室
伊那市長谷溝口
 戸台の化石サンカクガイやアンモナイトなどの化石が産出する戸台層は、中生代白亜紀(約1億2千万年前)の比較的浅い海底で堆積した地層が、長い間の地殻変動で隆起したものと考えられている。長谷公民館内にある化石資料室には、学習会で採取された化石が整理・保存されているほか、代表的な化石が展示されている。
☎0265-98-2009
公開日2016/02/17・更新日2016/02/23
伊那市観光協会

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