史跡・名所 |
伊那部宿旧井澤家住宅 |
伊那市西町 |
伊那街道の中間点にあった伊那部宿。井澤家はこの宿場の中で、代々造り酒屋を営んでいた。
問:伊那部宿旧井澤家住宅 0265-74-8102 定休日:毎週火曜日
入館料:一般200円 小中学生100円 ※団体割引(20人以上)あり |
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坂下の辻 |
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伊那街道、はびろみちなどの交差する重要な辻。 |
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漂白の俳人 井月の墓 |
市内には各所に句碑が立っている。 |
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御殿場遺跡(ごてんばいせき) |
伊那市富県 |
ここは縄文中期に使用された竪穴式住居が復元されています。この遺跡からは国の重要文化財「顔面付釣手形土器」が出土しており伊那市考古資料館に展示されています。また、ここは中央アルプスの眺めも格別です。 |
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清水庵(きよみずあん) |
伊那市手良 |
およそ1200年前、京都清水寺、播磨国(兵庫県)清水寺の御本尊と同一の木を彫刻したと伝えられる観音様が、突如飛来した。この観音様をご本尊として祀ったのが清水庵の始まり。天正10年(1582)織田軍の武田攻め(高遠攻め)の際、炊き出しを強要され、これを拒否した清水庵はことごとく焼かれてしまったが、燃え上がる戦火の中ご本尊だけが再び飛脱し難をのがれたという。この『空飛ぶ観音様』は秘仏として祀られ60年に一度の御開帳のみに姿を現す。ここには隠れキリシタンが祈りを捧げた十字架が刻まれたお地蔵様、井月の句碑もある。 |
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蟻塚城(ありつかじょう) |
伊那市美篶 |
美篶笠原集落の東北の小高い丘陵地にある中世の城。平安末期、この笠原の地は朝廷直轄の牧場「御牧」だったため、有力豪族の笠原氏が築城したと考えられている。笠原氏は諏訪神社神官一族の出と言われており、現在残る城跡は室町初期(14世紀)に成立し、戦国期(16世紀)に廃城となったらしい。本丸跡の斜面には高さ約5mの土塁が残る。 |
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百庚申・穴観音(ひゃくこうしん・あなかんのん) |
伊那市手良 |
江戸時代末期1847年から1860年までの13年間に当時の野口村を中心に百余人の寄進にによって造立。庚申の主尊は青面金剛で最前列中央に建ち、猿田彦命、半球形庚申供養など合計百体以上が整然と並んでいる。その中には、小さな盛り土の塚があり「穴観音」と呼ばれ、4体の石仏が安置されている。 |
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四国八十八カ所霊場(しこくはちじゅうはちかしょれいじょう) |
伊那市手良 |
幕末1844~1847年間に野口村などの寄進によって造立された石仏群。八十八カ所霊場としているのになぜか石仏は89体ある。地面に直接立てる野仏方式であり舟型碑に観音様や薬師様等が浮き彫りされている。馬の神様の観音様もあり、当時は手良地区を中心とした農家の信仰を集めていた |
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一夜の城(いちやのじょう) |
伊那市富県 |
天正10年(1583)3月、城将仁科五郎盛信以下、伊那の地侍などが立てこもる高遠城に織田の武田攻めの軍勢がせまり、織田軍は一夜にしてここに約50メートル四方の土塁を盛り陣城を築いた。現在は北東角の厚みのある土塁の一部が当時の様子を伝えている。 |
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殿島城址公園(とのしまじょうしこうえん) |
伊那市東春近 |
春日城主伊那部但馬守重成の次男新左衛門重国が分家して「殿島大和守重国」を名乗りここに居城した。重国は武田信玄に謀反人
として殺された8人の豪族のひとりで、長谷の八人塚に葬られている(M-7)。現在は公園となっていて郷土を守った重国の碑が建っている。 |
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金鳳寺(きんぽうじ) |
伊那市富県 |
文明2年(1470)駿河の国(現静岡県天竜市)玖延寺の天宗元康大和尚によって開山され、以来500年現在に至るまでに3度の火災に遭っては再建されてきた。本堂への石段の最上段右にある「於三の坐禅石」は夫を亡くして悲嘆に暮れていた上原於三が7日7夜その上に座って悟りを開いたといわれる石。 |
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伝兵衛井筋(でんべえいすじ) |
この井筋の歴史は古く起源は明暦元年(1655))水利に乏しい原新田村が三峰川の水を引き入れて開田しようとし、佐久から柳沢弥左衛門を招き万治元年(1658)に完成させたが、難所鞠ケ鼻(現高遠町下山田)の崩壊で長く放置された。天保3年(1832)杉島村(現長谷杉島)の伊東伝兵衛は、原新田村と協議、高遠藩の許可を得て自費で改修に着手し、その後貝沼・桜井・榛原・南福地・北福地へも分水し改修が進んだ。正式名は「春富大井筋」だがいつのころからか「伝兵衛井筋」と呼ばれている。 |
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仲仙寺(ちゅうせんじ) |
伊那市西箕輪 |
弘仁7年(816)今から1100年以上の昔、慈覚大師は夢のお告げで信濃に下り霊木を得て十一面観音を刻み、観音様を刻んだ木片に写経し、経塚を作り納めた。その山を「経ケ岳」と言い、その麓に観音様をご本尊として開山したのが仲仙寺の始まりと言われている。開山当初は別の場所にあり、寺名も藤宝寺といった。慶長18年現在の地に移り羽広山仲仙寺と改称。「馬の観音様」として広く信仰を集めた。坂下の辻から始まる「はびろみち」はここが終点。
仲仙寺 ☎0265-94-3205
(仲仙寺HP)
(伊那市観光協会HP) |
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常輪寺(じょうりんじ) |
伊那市西春近小出1区 |
鎌倉時代、歌舞伎の題材にもなった「曽我兄弟の仇討」。兄弟の討った父の敵、工藤祐経の子犬房丸がすでに捕えられている曽我五郎(弟)に無礼をはたらいたと源頼朝により伊那の地に流刑となった。犬房丸は流されたこの伊那の地で水路を引いて原野の開拓や農業の振興に努め、古寺を再建し、厚く信仰した。この寺が現在の常輪寺の基と伝えられている。寺には犬房丸の墓、使用したという膳、椀、皿などがある。 |
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史蹟 天竜川舟着場(しせきてんりゅうがわふなつきば) |
伊那市坂下入舟 |
権兵衛街道と杖突街道(現国道361号)が伊那街道(現153号)と交差する坂下は、かって船着場として栄え「入舟」の地名が往時を忍ばせている。天竜川の通船は現辰野町平出から静岡県掛川市まで文政13年(1830)から約80年間続き、江戸や大坂に向けて木材・干し柿・林産物などが搬出され、東海地方からは塩・綿・干し魚などが入ってる重要なルートであった。碑の横には河の神として船頭たちの信仰を集めた弁財天の祠もある。 |
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伯先桜(はくせんざくら)と見通し桜(みとおしざくら) |
伯先桜:伊那市西町 見通し桜:伊那市狐島 |
伯先桜は、天明、化政の頃、儒医で知られた中村伯先(1756~1820)が自宅の庭先に植樹した枝垂桜で樹齢200年余、伊那市の天然記念木に指定されている。(左)また、天竜川対岸の狐島区にある「見通し桜」は、洪水のためたびたび大きく川筋を変化させ、大きな被害を出した天竜川の測量起点として伯先桜との「見通し」を行った桜で、現在の桜は2代目。(右) |
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春日城跡(かすがじょうせき) |
伊那市西町 |
天文3年(1534)平家の末流粟田口民部重吉の16代目伊那部大和守重慶により築城、重慶の元の姓は春日であったことから「春日城」と呼ばれた。天文10年、織田信忠の武田討伐軍により廃城。城主は高遠城に入り討ち死したと伝えられる。現在は、桜の名所春日公園として親しまれている。 |
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蓮台場(れんだいば) |
伊那市狐島 |
御仕置場とも呼ばれた場所で、武田信玄の侵略に対し最後まで抵抗した伊那の8人の武将が武田軍に捕えられ、この場所で磔の後、首をさらされた。長谷黒河内の人々は闇夜に紛れて8人の首を持ち帰り、長谷艮城の東に葬り冥福を祈った。八人塚碑(M-7)が建てられている。また江戸中期、民に慕われた北山和尚の墓でもある。 |
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艶三郎の井(つやさぶろうのい) |
伊那市荒井 |
明治の中ごろ、天竜川西の高台では水利権を巡る争いが絶えなかった。用水の必要性を痛感した西伊那部村荒井の御子柴艶三郎は、私財を投げ打ち井戸の開削に奔走し、明治28年ついに水脈を発見、一帯の約40ヘクタールが水田となった。その後艶三郎は「俺の命は約束通り水神に差し上げる。俺は水神になる」と遺言し明治32年冬自刃。「井」は現在もこんこんと湧きだし近くに御子柴水神の頌徳碑が建っている |
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